真島元之建築設計事務所

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エッセイ 2002.4~2010.1

映像に写ったニッポンを見る

大阪国際女子マラソン~ラストサムライ


 先の日曜日(1/25)に行われた女子の国際マラソン大会をテレビで見ていました。
 マラソンを見る楽しみは、試合の駆け引きを見ているのはもちろんですが、マラソンコースになっている街の風景を見るのも楽しいものです。
 道路に電柱が立ち電線が走っているのは日本に見られる独特な景色です。あまり美しいとは言えませんが、見慣れれば、箱根駅伝などにも見られ、懐かしい郷愁ある風景です。
 今回のコースは、大通りを選んでいたせいもあるかもしれませんが、高さの統一感がない単調なオフィスビル群が建ちならぶのを延々見ているのには楽しみも半減しました。
 唯一、中之島公会堂のある中之島公園と大阪城園内のコースは心和みました。
 緑があり選手にとってもほっとするコースであったのではと思います。が、もっとも、このあたりで先頭争いの熾烈な展開になっていたので、風景を楽しむどころではなかったのでしょうが。

 パリやボストン、ベルリンのマラソン大会をテレビで見ていると、街路樹と歴史的建物が異国情緒を盛り上げ、美しい街並みに訪れたい思いをさせてくれます。
 古い建物だけでなく、新しい建物もまた、目を引く興味ある建物です。
 今回の大会は国際マラソンなだけに世界にこのレースは発信されているのでしょう。
 そう思うと、あまり美しいとは言えない大阪が紹介されたようで、少し寂しい気もしました。

 今朝、アカデミー賞に「ラストサムライ」の渡辺謙が助演男優賞、「たそがれ清兵衛」が外国語映画賞にノミネートされたというニュースを耳にしました。
 日本が外国に誇れるものは、いまだにお城とチョンマゲのようです。  (2004.1.28)

日本の新年

あけましておめでとうございます


 

 子どもの頃は、新しい年におろすよそ行きの服を準備なぞして、正月に期待感とわくわく感がありました。
 京都の年末は、商店街の餅屋から湯気とともに香ってくる餅米の蒸した匂いが年末のあわただしさを感じさせました。
 正月はこたつに入っておせち料理と京都独特の白味噌のお雑煮。
 ただ最近は、1月1日も他の日とさして変わらなく特別な日である意識が弱くなってきました。
 仕事をし始めて時間の過ぎ行く速度が変わったせいもあるでしょうが、日本人の生活が変わってきていることが大です。
 商店や食べ物屋さんも正月から営業してるし、保存食であるおせちも用意しなくてよくなってきています。おせち自体百貨店で買う時代です。
 手書きの年賀状も少なくなってきています。
 コンピュータ世代の子どもの遊び方も昔とはまったく違っています。
 生活が変わりつつあるも、日本独特の伝統が薄れて行くのは寂しい気がします。

 昨年は世界が激動した出来事も多い年でした。
 日本だけでなく、世界的なグローバルな視点で物事を見なくてはいけなくなってきているのは事実です。
 ただ、そのグローバル化は世界が均一になるのではなく、各々の民族の独自性を大切にしてゆくことだと思います。
 
 今年も住宅をつくっていく中で、住まいに関しては、少しでも日本らしさを、日本の良さを残して行きたいと思っています。

 今年もよろしくお願いします。  (2004.1.5)

路地に育った小さな緑

バジル ビフォアー・アフター


 私の事務所は梅田から歩いても10分とかからない中津にあります。
 都心梅田から近いと言っても戦争で焼け残り、開発から取り残された古い長屋街なんです。
 家の前の道幅は2m50cm。車が入ってくることもないし、現行の建築の法規から言えば同じ家を建てられないような場所です。大阪ミナミの法善寺横町で問題になっているような規制がかかってくるんです。

 この家の前の路地にはすごく生活感があふれています。住人は、鉢植えの植木を狭い路地をさらに狭くするようにはみ出させています。
 まるで品評会の会場にも見えます。それだけ丹精こめたツツジやアジサイ、名前を知らない花を咲かせる樹木は素晴しいものです。
 私もそれに習ってしばらくは朝顔とヒマワリを植えていました。結構満足行くものでした。
 今年からは常緑種を植えています。そんな中のひとつにバジルを植えました。
 ところどころ虫にも喰われはしたものの、それは無農薬たる成果として、順調に葉っぱも付け、2、3日前初収穫しました。バジルソースをつくり、味わいました。
 
 なんだか自分でつくったものってやっぱり旨いですね。

  
 ビフォアー ➡ アフター  (2003.6.24)

建物から住まいへ

1年めのS邸


 先日、S邸を約1年ぶりに訪れました。
 建物の引き渡しの際、Sさん家族に「娘を嫁がせるって、こんな気分なんですかねえ」なんて話しをしてました。
 現場監理をしていた頃は、もちろん自由にあちこち動き回っていましたが引き渡すともうこの建物はSさん夫婦に託されています。
 いくら間取りを知っていても、無用に覗くことは当然できません。
 その子どもの1歳の誕生日に、どんなふうに育ってるのか、元気なのか、成長を見に行ったようなものです。

 竣工当時、若いSさん夫妻が徐々に手を加えて行くということから、仕上げは最低限度にとどめました。
 合板現わしだった壁はクロスが貼られ、無塗装だった階段や木枠に塗装が施されていました
 家具も置かれて、壁や棚には家族の楽しい写真が飾られています。ホールやギャラリーにはリトグラフの額が掛けられ、花が生けられ、訪れる人を迎えます。
 テラスは、子どもたちがおもちゃを広げ、また家族室の延長として走り回っています。ボンボンチェアにクッションが日干しされています。
 オープンな広い子ども室はプレイランドとなっていて近所の子どもも呼んでいるとのことです。
 こうしてだんだん色が加えられて「建物」は「住まい」へと変わって来ました。
 つまり生活の匂いがついてきました。
 建築は芸術だという人もいますが、簡単に芸術作品だと言い切れない理由はここにあります。
 住む土地があって、住む人たちがいる。でなければ建築、特に住宅は完成しないんです。
 「子育てに一息ついて少しひまができれば、また手を加えたいんです」とSさん。

  

 S子が元気に育てられてるのが確認できて、3時間ほどの滞在の後、またじきに様子を見に来るね、と別れを告げました。  (2003.5.2)

イサム・ノグチのアトリエ

日本の美を再認識させてくれる人


 大相撲初場所では朝青龍の活躍はすごかった。
 謙虚な態度の日本の力士とは違って、身体の調子のいいときは、自信あるところを素直に語ってくれて、またその言葉のとおり相手を負かす姿も観ている側にもすがすがしさを与えてくれました。
 今場所は海外の力士が活躍して、6つの階級のうち5つ外国人力士が優勝しました。
 日本の若者が相撲界になかなか入門しなくなったらしいですね。むしろ、海外の若者が日本人よりも相撲のよさを分かっているようです。

 先日、四国香川に行ってきました。山田家のうどんを食して、イサム・ノグチのアトリエに行ってきました。
 イサム・ノグチ(1904-1988)は和紙を使ったデザインの照明器具「AKARI」でもおなじみの有名な日系米人の石の彫刻家です。
 牟礼の山あいにある彼のアトリエと住居が彼の死後公開されています。
 アトリエには制作途中だった石材が無造作に置かれ、また作業場の庭には抽象的な作品が弧を描き大地に楔を打つように屹立しています。あるものは磨き上げられ、あるもにはノミによって削がれた荒々しい石の割れ肌を見せています。

 
 その配置は、見るものによっては宇宙を測る天文台にも思えます。また、野仏のようにも思えます。
 こうした抽象芸術を生み出したイサム・ノグチのアトリエはといえば、現代アートとはまったく逆です。
 明治の古い酒蔵を移築したものです。瓦屋根に、漆喰塗の壁、内部は壁は荒壁のまま、床は叩き仕上げ、小屋裏の梁ががあらわになっています。その作業場を石垣が美しいカーブを描いて取り囲んでいます。また、建物と対になって植えられた樹木との相性も素敵です。
 作業場に隣接した住居は、やはり古い丸亀の豪商の屋敷を移築したもので、古い家でありながら石貼りの土間床や座テーブル、庭のしつらえ、そしてもちろん照明などいかにもイサム・ノグチの感性が感じられます。
 アメリカで暮らすことが長かったにもかかわらず、むしろそれだからこそ日本の美への感性が昇華されたのでしょう。
 普段接している日本にあるものも、その視点を変えたり、新たな要素を組み入れることで新しい価値を見い出すこともできるのです。
 外国から見ること、あるいは外国人の目を通すことで、さらにその価値は浮かび上がってくるのです。

 最近古い家のリフォームをする機会があって、その歴史ある価値をどうすれば活かせるか考えて設計しています。  (2003.2.3)

家のつくりようは、夏をむねとすべし

吉田兼好 『徒然草』


今年の夏も厳しい暑さが続いています。

吉田兼好は『徒然草』に
 「家のつくりようは、夏をむねとすべし。冬はいかなる所も住まる。暑き比(ころ)わるき住まいは、堪へがたきことなり」
と書いています。
おそらく兼好法師の時代の京都も暑さ厳しく、思わずしたためたのでしょう。
しかし、エアコンなどなかった時代には住まい方にもいろいろ工夫をしたことでしょう。
風通しのいい間取りを考えたり、日差しを避けるために深い軒をつくったり、目隠し格子や簾戸などを開発したり、今でも使えるものも少なくありません。
私の生まれ育った京都の実家でも夏には夏用の障子に入れ替えていたことを覚えています。紙障子を、風の通る簾戸にです。
そんな「しつらえ」もまた、着衣の衣替えと同じく季節の変わり目の行事だったのです。

私の事務所は50年が経つ長屋です。
路地おもての扉を開け放ち簾で目隠しして、猫の額程度ですが裏の坪庭も全開して、通り抜けてゆく自然の風で涼をとっています。
朝昼夕には、路地に打ち水をして少しでも温度を下げようとします。
ただ、今や町なかの地面と同じく、この路地の道もアスファルトで覆われ、打ち水をしてもその表面の温度を下げるどころではありません。かえって熱気が上がってきたりします。
軒下には風鈴をぶら下げて、涼しげな気分を楽しんでいます。音で涼を得るなんて、考えついた人はなんて風流でしょう。
先日、裏の淀川で花火大会が催されましたが、これもまた涼しい気分を運んできてくれます。

エアコンのスイッチ入れれば、室内の温度もすぐに下がるんですが、反対に外部の気温を上げるとなると気が引けます。
古人の知恵にはなにかしら情緒や粋なものがあったけど、科学の発展はそんなものを否定した上で成立しているようです。
こんな暑い日は仕事の手を休めて、そんなことをちょっと考えてみるのはどうですか?  (2002.8.8)

京都市太秦

もはや名は体をあらわさない?


問題:次の漢字の読み仮名は分かりますか?
   西院、蚕ノ社、太秦、帷子の辻、車折

 太秦は、以前NHKの朝の連ドラ「オードリー」の舞台にもなっていた場所です。
 京都四条大宮から太秦まで嵐電(らんでん:京福電鉄の通称)に乗ると、四条大宮から西院、三条口、山ノ内、蚕ノ社、太秦、そこから終点嵐山までは帷子の辻、有栖川、車折、鹿王院、嵯峨駅前、嵐山。
 京都に残る1両編成の路面電車が立ち寄る無人駅のどう読むのかわからない駅名に頭をひねりながら土地の歴史を想像させてしまいます。

 秦酒公(はたさけのかみ)が絹を山のように積んで奉じたのを雄略天皇が喜び、禹豆麻佐(うつまさ)の号を与え、その名が秦氏の別称とされ、やがて現在の字が当てられるようになった太秦、養蚕技術に長けていた秦氏が建立したとされる社に由来する蚕ノ社、檀林皇后が崩御された時、棺を乗せて嵯峨の地へ葬送の途中、折りからの突風にあおられ棺の上を覆っていた帷子が散った、この珍事が起こった辻に因んで呼ばれるようになった帷子の辻、亀山上皇が嵐山へ行幸する途中、路上に大きな石があったため、仕方なく牛車を降りて歩いたという、その話が元で車前(くるまざき)と呼ぶようになり、牛車の車軸を折るくらいのその石に由来する車折などなど。

 土地の名前を知るだけで、そこには物語があり、古代へのロマンを感じます。

 先日、三田に住む学生の設計課題の敷地図を見せてもらった。広げた地図を覗くと、ゆりのき台、けやき台、すずかけ台、つつじが丘、あかしあ台、はては、フラワータウンにウッディタウン、テクノパーク・・・
 三田の土地にはなんの歴史もないのか、と隣接する旧集落と思われる方を見て行くと尼寺、加茂、沢谷、下内神、四ツ辻、井ノ草、大畑・・・、なあんだ、あるじゃあない。かつて山だったろうこの土地にもなんだかイワレのありそうなところが。
 こうした樹木系のおんなじような地名は各地の新興都市でも出会ってしまう。かつて地名は歴史、地勢、風土、そして悪しき例として差別的意味合いをもっていたのが、無個性化、均一化してしまっている。

 地名は、実際の建築を設計する際にも参考になるものです。土地の記憶や思い出などを手がかりにコンセプトをつくる場合や、実務的な面では、土地の名に沢や谷、津、沼なんかの付く地名だと、こりゃ地盤がよくないんじゃあないかと注意したりするけど、ゆりのき台やフラワータウンじゃあねえ・・・

 地名は護っていってほしいものです。形のないものは壊れるのも早いんだから。これも一種の歴史的遺産ですから。

 答え:さい、かいこのやしろ、うずまさ、かたびらのつじ、くるまざき
 注:西院は阪急電車では、離宮淳和院が皇居の西方にあったことからさいいんと呼びますが、嵐電ではさい。佐比大路があることから、この辺りをさひと呼び、やがてさいと発音するようになったようです。  (2002.5.15)


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